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事務局の独り言【2010年1月】
このコーナーは2009年12月からスタートしました。開始以来毎日更新しています!



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1日〜10日 11日〜20日 21日〜30日



No,060   #2010年01月31日(

互理楽の足あと作成中トピックスの1月14日の記事に掲載されている「知的障害者との交流事業」で、既にご存じのこととは思いますが、山鳩会館を拠点として知的障害者の自立支援を実施しています。昨日の1月30日も、はたちの会のメンバー10人が山鳩会館に集合して、クルミの殻で作成する足裏マーサージ板「互理楽の足あと」の制作に精を出しました。このマッサージ板は、従来痛くて上がれなかった方でも大丈夫で、程良い刺激とクルミの殻の肌触り、そして全てが手作りというこだわりで制作しています。まず、クルミを拾うことから始めなければなりません。そして洗ってから乾かし、割りますが、このとき中からきれいに割れないと殻は使用できません。そしてクルミの実を掻き出してから、予め加工されていた杉板に木工ボンドで殻を貼り付けます。1週間程度乾かしてから、ワラでなった縄を穴に通して完成ですが、最後に「はたちの会」の焼き印を押して終了です。完成品はNO,41に掲載していますので、ご覧なっていただきたいと思いますが、これを950円で3月から販売しますので、皆様におかれましては是非とも購入くださいますよう、特段のご配慮をお願い致します。昨日は、これまで頑張った分を知的障害者に賃金として支払ったようです。知的障害者の自立支援には、まだまだ多くの課題が山積していますが、悩むことより、まずは行動することが解決の足がかりになることでしょう。

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No,059   #2010年01月30日(

払川フュッテジースリービー会については、NO,45、47、48で紹介しておりますが、この写真は、高校を卒業した昭和53年に開催したクラス会です。まだ、ジースリービー会と名付けていない時期で、鳥海山5合目の矢島の払川フュッテを会場に、半数以上のクラスメイトが参加して1泊で開催しました。当然の如く、故佐々木洋介先生も参加しています。社会人1年目で東京から帰省した者や短大生、大学生が混じっていますが、5カ月ぶりの再会に大いに盛り上がった記憶があります。また、洋介先生が前日に鳥海山に登り、降りてくるのに合わせて開催したような気もします。いずれ32年前のことですから、記憶が定かでないのも致し方ないことでしょうが・・・。右端が私ですが、そのすぐ後ろが洋介先生で、その隣の女性が村上富士子です。サークル「山鳩」のメンバーでもあり、山鳩のサイトのトップページに何度も出てきますが、既に亡くなってから20年近くになるでしょうか?部活ではソフトテニスをやり、卒業後は短大を経て保育士として働き、お嫁さんになって一児の母となり、幸せな家庭を築いていた矢先に、突然の病魔に襲われ帰らぬ人となりました。天国で見守ってくれていたであろう富士子が、洋介先生と仲良く高校時代の話に花を咲かせていることでしょう。お二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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No,058   #2010年01月29日(金)

佐藤袈裟孝さんと2ショット鳥海地域と三船敏郎の関係については、NO,55や三船敏郎コーナーでご存じのことと思います。私は、三船敏郎と鳥海地域が関わりがあることを幸せに感じていますし、誇りに思っています。日本人で世界に通用する方はたくさんいますが、秋田県出身もしくは関係者で世界に通用する方は何人いるでしょうか?私の中では、元国連事務次長の明石康さん、元マラソンランナーの高橋純子(旧姓浅利)さん、映画監督の故黒澤明、そして「世界のミフネ」こと三船敏郎ぐらいではないでしょうか?日本では知らない人がいないと思われる、あの故石原裕次郎でさえ世界には通用していないと思います。そんな偉大な俳優だった三船敏郎の遺品を数多く持っている方が、長野県佐久市に住んでいる佐藤袈裟孝さん(写真右)です。私と体格が似ていて、親子に見えませんか?平成18年に、三船敏郎フォーラムを開催する際に一度だけ訪ねたときの写真です。袈裟孝さんは、三船敏郎の美術担当として長年仕えていた関係で、映画の際に使用した道具類を自宅の裏に保存しています。三船敏郎から信頼されていたのでしょう、大事にしていた物も袈裟孝さんに差し上げていたようです。その袈裟孝さんは、平成18年と19年の2回鳥海地域を訪ね、三船敏郎の父の生家も訪問しました。その際、歴史ある生家に感激し、このままの状態で保存されることを望んでおられました。「三船敏郎記念館」は永遠のテーマですが、三船敏郎の生誕100年までは後10年しかありません。

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No,057   #2010年01月28日(木)

受験対策事業の様子3月5日の高校入試の日が近づいてきました。当事者である中学3年生の皆さんは、夜を徹して受験勉強に取り組んでいることでしょう。鳥海地域(伏見集落)から進学塾のある本荘までは、約30キロメートルありますが、笹子地区からだと40キロメートルを超えます。さらに不景気により、家庭の財布は厳しさを増しています。こんな状況を打破するため、鳥海地域の中学3年生を対象に受験対策の塾を開講したところ、12名から参加の申請書が届きました。12月19日に開講式を行い塾がスタートしました。ボランティアの講師には、秋田市で塾の講師をしている草皆君を迎え、毎週土曜日の午後2時から5時までの3時間で、講師の燃料代と教材費、会場料を合わせて一人500円で実施しています。これを企画したのが、昨年7月に会社を設立した(株)ベストファミリー鳥海です。ベストファミリー鳥海の紹介は後日として、塾は数学を中心に社会、英語を実施してきました。現在は、9名の生徒が山鳩会館に集合し3時間の授業を受けていますが、終始笑い声が聞こえる楽しい雰囲気の中で行われています。「勉強は楽しく」をモットーに掲げていますので、生徒からの評判はいいようです。また、保護者からも喜ばれております。全部で10回を予定していますが、5回目の終了後は保護者からカレーライスを作ってもらい、一緒に仲良く食べました。10回目の終了後も、カツ丼を作ってもらい激励会を開催する予定です。少子化が進んでいる中、子供たちは町の財産であり、地域全体で見守る必要があると考えています。今回の事業は、ほんの小さなことで第一歩を踏み出しただけですが、次のステップとなることを希望しています。

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No,056   #2010年01月27日(水)

秋田県立大学正面由利本荘市に唯一ある大学が、秋田県立大学本荘キャンパスです。平成11年に開学したこの大学は、秋田県内での建設に誘致合戦が行われ、最も盛り上がりが高かった由利郡本荘市(当時)への誘致が決まりましたが、秋田キャンパスとの二分化の大学としてスタートを切りました。平成6年頃から、当時の由利郡本荘市が一体となり誘致運動が展開され、大学のないこの地域に是非誘致したいという思いは、かなり高かった記憶があります。私なりに思ったのは、全国から約1000人の大学生が集まることによって起こる波及効果は、かなり大きいものがあると考えました。アパートなどの不動産業や飲食店などですが、何より若い方々のエネルギーが注入されることは、地域に変化をもたらすと思いました。特に、由利本荘市の中で最も遠い位置にある鳥海地域を、若者の手によって変化させることができないか、地域と大学生の交流によって過疎化を防げないだろうか、全国から集まった学生の話を聞く機秋田県立大学食堂会がもてないだろうか・・・。残念ながら、これまではそういう機会もなかったように感じています。あんなに地域の皆さんが待ち望んだ大学なのに、本来の役割を果たしていないような気がしてなりません。もっともっと、地域と大学生が交流していかなければ、由利本荘市にとっての本荘キャンパスは、あって無いようなものになってしまいます。私の娘も本荘キャンパスに御世話になり、この春に卒業し東京への就職を予定しています。就職率も高く、大学としては申し分ないのですが、地域との交流の場をもっと多く持っていただくよう期待しています。4年間御世話になり、大変ありがとうございました。

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No,055   #2010年01月26日(火)

小川会館前にて「世界のミフネ」こと、三船敏郎を知らない人はいないでしょう。と、言えたのは20年前ぐらいでしょうか?三船敏郎がこの世を去ったのが、平成9年12月24日でしたが、生きていれば丁度90歳です。晩年は、病気療養のため俳優をしていませんので、通算すると20年ぐらいかなと思った次第です。しかし、これからは三船敏郎を知らない人が、どんどん増えて行くことでしょう。世界に通用する俳優の第1号は、三船敏郎であるはずです。31歳でベネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、フランス映画ではアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演した「レッド・サン」がヒットし、ハリウッドスターが活躍した七人の用心棒は、黒澤監督が制作し三船敏郎が主演した七人の侍をまねているなど、1950〜1960年代は黒澤・三船のオンパレードでした。その二人の父親が、秋田県出身だと知っている方は少ないのではないでしょうか?黒澤監督は旧中仙町で三船敏郎は旧鳥海町という、偶然にしてはあまりにもできすぎた話ではないかなと思っています。その辺のことは今後触れることにしますが、サークル「山鳩」では「三船敏郎と共に歩む町づくり」を続けています。このサイトの活動記録や三船敏郎コーナーをご覧いただければ、お解りになると思います。鳥海町に4度訪れた三船敏郎は、何を見て、何を思い、何を発見したのか、非常に興味のある部分なのですが、少しずつお話したいと思います。写真は、昭和44年の秋田博覧会で、ゲストとして招かれたときに鳥海町を訪問したものです。中央の三船敏郎の向かって右側に小さい子供がいますが、彼(藤原君)が大切に保管していた物をお借りした次第です。

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No,054   #2010年01月25日(

浅利純子さんを囲む会私は、鳥海陸上競技協会の事務局(会計兼務)をやっています。経済的事情により、高校時代は野球に入部できなかったので、一番金のかからないであろう陸上部に入部したおかけで、平成4年の設立と同時に事務局をやらせられました。私としては、いろんな事務局や会計を担当しているので、できれば別の方にお願いしたかったのですが、引き受けざるを得ない状況に追い込まれ、現在も続けています。写真は、平成17年に「第6回鳥海山ハーフマラソン大会」のゲストランナーとしてお出でいただいた「浅利純子さんを囲む会」として、鳥海陸上競技協会が主催したものです。確かこのときは、浅利から高橋へ姓が変わった頃で、幸せ一杯の状況でした。浅利さんとは、平成13年の「第2回鳥海山ハーフマラソン大会」からのお付き合いで、平成17年に、由利本荘ベースボールクラブが設立したときの副会長にも就任していただいたのですが、結婚を機に行動範囲が限られてきたのか、最近はお見えになっておりません。非常に気さくな方で、私たちとも普通に話される優しいお嬢さんです。囲む会で部屋に入ろうとした浅利さんは、他の人が履いたスリッパも、きれいに並べてから部屋に入りました。また、お酒は飲みませんでしたが、みんなのテーブルを回って歩いてお酌をしていました。スナップ写真にも気軽に入り、頼まれればサインも気軽に応じていました。そんな浅利さん、いや高橋純子さんともう一度会いたいものです。(中央で花束を持っている方が、ご本人です)

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No,053   #2010年01月24日(

野球シーズンまで3ヵ月…野球が大好きな私は、今も現役で野球を楽しんでいます。野球観戦よりだったら、自らが出場した方がず〜っと楽しいです。決して、試合終了後のビールが飲みたくてではありません。12歳から始めた野球ですが、高校時代の3年間を除き約40年間やっていますが、未だに全てを知り尽くしたわけではなく、まだまだ奥深いスポーツが故に勉強させられることが多々あります。体力は衰えていきますが、それをカバーできるものを発見したときの喜びがたまらなく好きです。例えば、走るのが遅くなって行きますので、盗塁するためにスタートをどうやって早くするかを工夫して、その結果が良かった場合は、やっぱり嬉しいですね。雪が消えて野球ができるまで後3カ月余り。仕事と野球の両立が、だんだん困難になってきましたが、大好きな野球をして、大好きなビールを、大好きな仲間と飲める楽しみを満喫したいと思っています。

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No,052   #2010年01月23日(

農作業の様子先日のラジオで環境問題が取り上げられ、全世界で2秒間に1ヘクタールの森林が消えて行っているそうです。理由までは聞き取れなかったのですが、すごい早さで森が無くなっていくことを知り、ビックリと同時に不安を抱いてしまいました。森林は二酸化炭素を吸収し、私たちに酸素を供給してくれます。その森林が消えていくのですから、恐ろしいことだと思いませんか?日本にいる限りでは、そんな不安を感じることはありませんが、世界では森林の伐採が進み、また土地が荒廃し砂漠化が進行しているようです。この緑豊かな日本を守っているのは、農業を営んでいる方々や森林を管理している方々です。しかし、その方々の苦労を知る機会は少なく、緑が豊富にあることは当然のことのように考えているのではないでしょうか?私も農家の端くれとして、雪が消えれば田んぼに出て精を出しますが、ご飯を食べられる喜びを感じている方も少ないのではないでしょうか?しかし、食品の偽装問題が多く発生し、食への考え方が変わってきた今こそ、農家にとって大きなチャンスが巡ってきたのだと思っています。口から入る食だからこそ、安全な美味しい物を安心して食べられることの喜びを味わえる、グリーンツーリズム(農家民宿)は、田舎に光明をもたらしてくれることでしょう。写真は、田んぼに農薬を散布する母と次男ですが、10年ぐらい前のものです。

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No,051   #2010年01月22日(金)

檜風呂で一杯…このコーナーも、昨日で50回を数えました。辛くなったら2〜3日おきにしようと思っているのですが、今のところ楽しくてしょうがありません。毎日読んでくれている方が一人でもいる以上、できる限り続けたいと思います。NO,45,47,48で紹介した故佐々木洋介先生は、今でも私たちジースリービー会メンバーの心の中に生き続けています。私たちは、佐々木先生から勉強だけではなく、生きていくために必要なことを多く学びました。本来の高校とは、大学に行くための学校なのでしょうが、私たちの頃の進学率は低く、大半が高卒で就職する者ばかりでした。社会人に進むための学校の役割を考えた場合、佐々木先生は最も適した人材だったように思われます。上司や同僚からは、どちらかというと嫌われていたのかもしれませんが、学校の主役である生徒からは絶大な信頼を得ていました。そんな先生から、3年間も担任として教わった私たちはラッキーな部分と、それを恩返しする役割を担っていると考えます。サークル「山鳩」にも4名のメンバーがいますが、みんな先生が大好きな奴ばかりです。毎年開催するジースリービー会に参加するのはもちろん、会を先頭になって引っ張って行っています。昨年も10名の参加のうち、3名がサークルのメンバーでした。生徒が大好きだった佐々木先生の遺志を引き継いで、私たちは地域のために貢献したいと考えています。写真は、山が大好きだった先生が桶風呂に入って、生徒から大好きなビールをついでもらっている様子です。先生と生徒が信頼していないければ、できないことなのでしょう。

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No,050   #2010年01月21日(木)

払い獅子昨日の太平山三吉神社祭典の長持ち奉納は、雨という悪天候にも関わらず20人ほどの若者と7〜8人の伏見町内会役員、奉納者など30人ほどが練り歩き、無事終了したようです。私も30年ほど参加しましたが、天候に恵まれたときは2〜3回しかありません。このお祭りが、「荒神様(あらがみさま)」とも呼ばれる由縁となっていますので、悪天候はしょうがないのです。頭からびしょ濡れになりながらも、社殿にたどり着いた若者は隣の神官のお宅へお邪魔し、暖かいお吸い物と炊き込みご飯で身体を温めます。私も勤務終了後に、獅子舞の幕開きのため、お邪魔してご馳走になりましたが、毎年のことですが美味しかったです。左の写真は、社殿での幕開き終了後に、隣の神官宅でお祓いをしているところです。無病息災を祈願する方々を一人一人、獅子の口を開けて頭から足までを払います。払ってもらった方々は、御礼にお初穂と称してお金を獅子の口に入れますが、そのお初穂は、伏見神楽獅子講中の運営費に充てられます。伏見神楽獅子講中は私を含め12人いますが、若者会に加入しているメンバーがほとんどで、獅子舞をやる頃にはグロッキーな者ばかりで大変な状況ですが、今年の幕開きも無事終了しました。
次回は2月1日に、「道切り」という伏見町内を災害や病害虫から守るための払い獅子がありますので、このコーナーで紹介したいと思います。お楽しみに・・・。


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No,049   #2010年01月20日(水)

伏見太平山祭典今日1月20日は、私が住む伏見町内の若者会の行事で、太平山三吉神社の祭典への長持ち奉納があります。私も5年ぐらい前までは加入していたのですが、息子が加入することによって引退という形になりました。本来は数え年の50歳までの加入ですので、2年前まで加入できたのですが一足早い勇退となりました。1月17日に秋田市の太平山三吉神社の祭典で、ぼんてん奉納がありましたが、ご神体を秋田市から運ぶのに3日間要したため20日の祭典となったようです。秋田市の太平山三吉神社とは違い、長持ちを担いで家内安全や五穀豊穣を祈願しながら「ジョヤサ、ジョヤサ」のかけ声とホラ貝を鳴らして練り歩きます。家々の前では「どんと上げたるこの長持ちよ、中に黄金が入っている」と長持唄を披露すると、各家からの御神酒の歓迎を受けます。約90軒ありますから、盃を90杯飲むことになりますから、3時間かけて神社に着く頃はヘロヘロになってしまいます。それでも、酒樽を筆頭に米俵、炭俵の5竿を担いだ若者は、気勢を上げて神社に入っていきます。ホラ貝が轟く中「春のはじめに祈願をかけて、祈願成就に納めおく」と歌い、杖を打ち鳴らして奉納は終了します。そして、社殿の隣にある神官のお宅へお邪魔して、さらに酒を飲むことになりますが、かなり酔っているのでほとんど飲めないのですが、おなかが空いているので炊き込みご飯が美味しくて、いつも楽しみにしていました。

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No,048   #2010年01月19日(火)

飛海海岸にて昨日(No、47)の続きです。30年前に行った思い出深い「飛海(とび)海岸」では、そのときと同じ位置で記念撮影(No,47の写真)をしようと考えていたので、少なすぎる参加者にも関わらず実施しました(左の写真1)。30年前は3月でしたが、今回は8月なので草の色が全く違います。また、キャンプ場として整備されており、当日も県外ナンバーの車が止まってテントを張っていたので、カメラのシャッターを押してもらいました。「飛海海岸」を後にし、次の目的地は中島台の鳥海マリモ(象潟)の視察です。運転手は私なのですが、目的地をレクチャーしていないため不安を抱きながらの走行で、ナンとか中島台にたどり着きました。しかし、鳥海マリモを視察するには1時間近くかかるとのことで諦めようとしたところ、近くまで行ける道を教えてもらい向かったのですが、山道で藪が深く大変な状況でした。それでも終点まで車で行き、炎天下の中、鳥海マリモを目指したのですが、私のせいで道を間違えてしまい、30分以上のロスを経てやっとたどり着きました。下界は30度以上の灼熱地獄鳥海マリモなのに、そこだけは異次元の世界のように、天然のクーラーが私たちの汗を引かせてくれました。そして、冷涼でひっそりと清流の中に、鳥海マリモは潜んでいました。7人の参加者のうち5人が初めての体験でしたので、苦労してたどり着いたこともあり大変喜んでいただきました(写真2)。5時からの宴会に間に合わせるため、ゆっくりもできないまま次のコースへ車を走らせ、途中で仁賀保高原のジャージーソフトクリームを食べましたが、これがいつ食べても絶品です。是非ご賞味ください。そして、南由利原で開催される「由利原まつり」(松原のぶえコンサート)をちょっとだけ視察し、会場の「龍石」には5時ジャストに到着しました。宴会から参加する3名と合わせ10名での乾杯、そして延々と続く昔話に時間の過ぎるのも忘れ、二次会へと出かけて行きました。

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No,047   #2010年01月18日(月)

ジースリービー会集合写真No,45の第2弾です。昨年のジースリービー会は、8月8日に開催しました。それまでは、8月15日と固定化した開催日でしたが、忙しくて出られないという女性陣の要望に応え、変更したわけでしたが、8月15日だと思って仕事の調整をしていた男性陣もおり、10人と少人数の参加となってしまいました。今回は、高校を卒業後30年という節目の年にあたり、30年前を振り返り想い出の地に行こうということで、卒業記念小旅行と称して大型バスを貸し切って行った「飛海海岸(金浦)」を目指しました。その前に、集合場所の本荘駅前にマイクロバスを走らせ(運転手は私です)、参加者を拾ってから昼食は清吉そばのラーメン。久しぶりに食べるメンバーもおり、懐かしい味を堪能していました。食事後は、仕事で参加できないホテルアイリスの村上裕一に寄ってあいさつを交わしてから、一路「飛海海岸」を目指しました。なにせ30年前に行った場所で、はっきりと分かるメンバーは誰もいませんでしたが、だいだいあの辺だという感覚で向かったら、運良く迷うこともなく着きました。ナンにもない海岸なのですが、30年前はソフトボールをしたり鍋っこをして食べたりして遊んだ記憶があります。45名のうち40名ぐらいが記念写真(左の写真)に写っていますので、かなりの参加率でした。ただ、大型バスを貸し切るには、かなりの費用がかかったはずですが、どのようにして捻出したのか、また、どうして「飛海海岸」にしたのか疑問があり、佐々木洋介先生に確認しようと思っていた矢先の事故死でした。続きは、また明日へ・・・。

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No,046   #2010年01月17日(

我が家今日1月17日は、阪神淡路大震災が発生した日で、あれから15年が経ったようです。私はあの日、宿直だったため職場の宿直室で第一報を耳にしました。映像は無く、阪神地域で大きな地震が発生したようだ、という報道でした。朝の5時46分に発生したとのことで、通勤時間には早いので被害は小さいだろうと思っていたら、徐々に被害の状況が映像に現れるようになってくると、軒並みに潰れた家がテレビ画面に映し出されました。火災も発生しているようで、あちこちから白い煙が立ち上っていました。地震だけだったらまだいいのに、火災が発生したらまずいことになるなと直感しました。逃げ遅れた方が危ないし、消火しようにも消防車が火災現場まで行けないだろうし、消防署員や消防団員も集まるのに時間を要すだろうし、消火栓や貯水槽も使えるか微妙だし・・・。家屋の倒壊で圧死した方も多かったでしょうが、火災で焼死した方も多かったことでしょう。関西方面は雪が少ないので、家屋の柱も細かったことが予想されます。東北や北海道のように雪が多く降る地域は、雪の重みに耐えられるように太い柱によって住宅が建設されていますので、同じ規模の地震があっても被害は少なかっただろうと思います。我が家(写真)も築40年が経過しましたが、自分の山から木を切り出して製材し、大工さんが一本一本の木材を丁寧に刻み建築した我が家は、私が生きている間は大丈夫でしょう。両親に感謝です。

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No,045   #2010年01月16日(

佐々木洋介先生葬儀No,42で出逢いのことを書きましたが、今回は高校での出逢いを紹介します。昭和50年4月に矢島高校の門をくぐり、G1Bのクラスに入ったとき担任が佐々木洋介先生という、若いが清潔感のない先生らしくない先生でした。その佐々木先生が、3年間をとおして担任となり、授業だけでは経験できない大切な時間(とき)を過ごしました。当時は普通課が2クラスに家政課、農業課、酪農課の5クラスがあり、私たち普通課B組はG3B(ジースリービー)といいました。この45人はまとまりのいいクラスだったので、昭和53年に卒業した年から同級会を開催し、ほぼ毎年のように開催しました。会の名前をジースリービー会と称し、佐々木先生をはじめ20名前後が参加しました。最近は、開催日を8月15日に固定し、毎回珍しいメンバーが関東方面から代わる代わる参加してくれ、大いに盛り上がっていました。また、突然帰省したメンバーがいれば、緊急のジースリービー会を招集して情報交換しますが、必ずといっていいほど佐々木先生も駆けつけてくれました。その佐々木先生が、平成18年6月6日に忽然とこの世を去りました。ジョギング中の交通事故に巻き込まれ、64歳という若さでの死に私たちジースリービー会は、悔しさをどこにぶつけるかさえも分からず、ただただ死を受け入れるしかありませんでした。左の写真は、葬儀の際にジースリービー会のメンバー15人(1人だけA組)で撮影したものです。さすがに、関東方面からは来れなかったのですが、地元のメンバーは大部分が参加しました。佐々木先生との出逢いは、私たちの高校生活を左右した大きな出来事であり、忘れることができない大切なものです。

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No,044   #2010年01月15日(金)

亀ケ森より川内方面へ…どんなとき、いつでも、どこでも映像が取れる時代になりました。誰もが携帯電話を持つようになり、その携帯電話がカメラとして使えるようになってからは、国民みんながカメラマンとなったからです。災害や事故、ハプニングなどの瞬間を、いとも簡単に撮影できるものを常に持っているということは、武器を手に入れたようなものです。その画像がマスコミの喜ぶようなものであれば、売ることも可能でしょう。できればそんな瞬間には、遇いたくはないのでしょうが、そのとき落ち着いてカメラを向ける勇気があれば、価値のある画像が映し出されることでしょう。私も、カバンの中にデジタルカメラを忍ばせて、気に入った風景があれば撮影するようにしています。左の写真は、フォレスタ鳥海から戻る際に、右側に見える川内地区方面にカメラを向けて撮影しました。新雪が木々に積もり、太陽の光に輝いて見えたのでシャッターを切りました。美しい風景は、いつも目の前にあるのです。

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No,043   #2010年01月14日(木)

スズ踊り私が住んでいる由利本荘市鳥海町には、数多くの伝統芸能が存在しています。「獅子舞番楽の里・鳥海」として知られ、13の講中で伝統を受け継ぐ本海番楽は、370年の歴史を誇る芸能です。毎年、8月16日には一堂に会し「獅子まつり」が開催され、獅子舞をはじめ番楽の演目も多く楽しめますので、是非ご覧いただきたいと思います。4人の若者が勇壮に舞う「貝沢からうすからみ」は、臼の周りを囲んで飛び跳ねるエネルギッシュな芸能です。約50年に渡って受け継がれてきた「天神あやとり」は、雄勝の院内銀山から伝わったとされ、天神地域の若い女性などが両手に「あや棒」を持ってしなやかに舞う芸能です。そのほかにも「猿倉人形芝居」「笹子盆踊り」「伏見盆踊り」などがあります。今回は、No,39にもありますが「上直根すず踊り」についてです。写真では見にくいのですが、直根地域の若い女性が両足を挙げ手に見せて、瓶にひょっとこやおかめをつけて股の間から出して踊りますが、かなり腹筋が鍛えられる踊りのようです。この瓶のことを「すず」ということから「すず踊り」と名付けられました。はっきりした年号は掴んでいませんが、約100年近い芸能だと聞いています。100年前だと女性の皆さんは、今のような下着は無く腰巻きと称したものを羽織っていたはずです。確かに袴を履いてやったそうですが、かなりきわどい踊りだったような気がします。出稼ぎに行った留守を守る母さんたちの飲み会の席で、踊ったのが始まりだと聞きましたが、その踊りを初めて見たときのお父さん方の様子を見たい気がするのは、私だけでしょうか?

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No,042   #2010年01月13日(水)

滝田洋二郎監督との交流会にて
「ひとの世の幸不幸は人と人が逢うことからはじまる。よき出逢いを」自宅のトイレに貼ってある日めくりカレンダーの相田みつをの言葉で、私の好きな言葉の一つです。この世に生まれ両親と出逢い、保育園で友達や保育士さんと出逢い、学校でも先生や生徒と出逢い、職場の上司や先輩、同僚、後輩に出逢い、共通の趣味を持つ友人や仲間と出逢い、その一つ一つの出逢いから生まれる出来事が、その人の運命さえ変えることがあるのです。昨年の出逢いについては、No,30に記載されていますのでご覧になっていただきたいのですが、11月3日に出逢ったブラボー中谷氏のことに触れたいと思います。滝田洋二郎監督との交流会が魁新聞に掲載されて、参加者を募集することを知って応募した中谷氏は、奥様と二人で出席してくれました。テレビやステージでは何回も見たことがあるのですが、会って話をするのは初めてでした。予め電話では、差し支えなかったらマジックを披露して頂けないかと交渉はしていました。いつもの真っ赤な衣装に身を包み、マジックショーが始まると70名の参加者はステージに釘付けとなり、巧みなマジックと会話に魅了されました。アカデミー賞受賞監督と会い、秋田が生んだマジシャン・ブラボー中谷氏のマジックを見ることができた参加者は、かなり得をした気分で帰路に着いたことでしょう。その中谷氏が開催する「第6回ハタハタマジック懇親会」が、2月6日に秋田ビューホテルに於いて行われます。寒く厳しい秋田の冬に、全国からマジシャンを集めて明るい話題を提供しようと開催するもので、1万円会費でマジックショーとディナーがセットされた懇親会です。私も、11月3日の御礼を込めて参加者を募って同席しますので、皆さんも是非参加していただき、全国のマジシャンの技を堪能していただきたいものです。今回の出逢いを大切にし、次につなげて行きたいと考えています。

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No,041   #2010年01月12日(火)

互理楽の足あと皆さん、本日1月12日の魁新聞をご覧になったでしょうか?地域の話題コーナー(20ページ)に、サークル「山鳩」が11月28日から毎週土曜日の午前中に開催している「知的障がい者との交流事業」が、大きく掲載されました。内容はご覧になっていただければ分かるのですが、見られない方はこちらをクリックしてください。クルミの殻を使用した健康グッズ「互理楽(ゴリラ)の足あと」は、20歳(はたち)の会の商品として販売されることになりますが、サークルでもPRや販促に協力しながら交流を続けたいと考えています。まずは、皆さんから購入して頂くことが、知的障がい者を理解することに結びつき、そして、手をつなぎ交流することに繋がります。
この商品は、秋田杉を使用した板にクルミの実を取った殻を半分に割って貼り付ける、全てが手作りのエコな製品です。これまで市販されている物は、足の裏が痛くて長く踏めない欠点がありましたが、この商品は足の裏に優しくヒットし、なおかつ手頃な痛さも兼ね備えたマッサージ板です。販売予定(税込み950円)は3月からとなっていますので、是非ともご購入していただきますよう、よろしくお願いいたします。因みに、このアイデアは私の発案です。


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No,040   #2010年01月11日(

雪中田植の様子今日は、ゆっくりのんびり鳥海荘に行ってきました。「雪中田植」のイベントがあったので、友達と二人で、3連休の最後を飾るイベントとして参加しました。さっきまで飲んでいましたので、現在も泥水状態です。でも、更新したいので・・・。80人の定員に100人を超える参加者があった今回のイベントですが、確かに盛り上がりましたが定員を超えるのは・・・?生ビールを飲むのに10分以上も待つのは、いかがなものでしょうか?ただし、最初だけで、それ以外は素晴らしいイベントでした。ほとんどが知っている方々で、3年ぶりに地元に帰ってきた私としては、ちょっと気恥ずかしい感じがありました。それでも、帰ってきたことに対しての歓迎の言葉があれば、お世辞でも嬉しい気持ちに変わりはありません。来年以降も、ずぅ〜っと続けられるイベントとして定着するように、陰ながら期待しています。大変、ご馳走様でした。

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No,039   #2010年01月10日(

フォレスタ鳥海にて新年会昨日は、忙しい一日でした。午前8時にサークル「山鳩」の除雪奉仕作業のため山鳩会館に集合し、思ったより雪の量が少ないので一人暮らし老人世帯の除雪は1月下旬に変更して、山鳩会館の屋根の雪下ろしと周りの排雪作業を実施しました。9時には知的障がい者との交流事業を開催し、胡桃を利用した足裏マッサージ板を作成しました。除雪を終了したメンバー7人も加わり、一緒に作業を実施しましたが、この様子を魁新聞の記者が取材に来ましたので、後日掲載されると思いますのでご注目ください。終了後、昼食を挟みながら久しぶりに麻雀に興じたら、半チャン1回だけしかやらなかったのに、ナンと親で国士無双をやってしまいビックリ。2時からは、高校進学受験対策事業に9人の生徒が参加しました。講師の予定の沼倉先生が、親戚の突然の不幸のため出られなくなったため、準備していた問題集を配布して自習にしましたが、2時半に太国士無双!!田先生がいらしてくれたので、バトンタッチして英語の授業に入りました。3時10分には、ホテルフォレスタ鳥海で開催される「由利牛を味わう美食の会」に参加するため、送迎バスに乗り込み出発しました。サークルのメンバー10人と主催者側のメンバー2人(フォレスタ支配人、Aコープ支店長)の12人が参加して、サークルの新年会を兼ねた4時からの開宴では、90人ほどの参加者と交わりながら大いに盛り上がりました。アトラクションでは、「上直根すず踊り」の皆さんの足芸を見させていただき、ビンゴゲームではメンバーの一人が当たった賞品が血圧計で、山鳩会館に備え付けとなりました。6時半にはフォレスタ鳥海を出発して、飲み足りないメンバー4人が山鳩会館に下車して2次会。、「上直根すず踊り」の皆さん5人が近くの居酒屋にいるということで、山鳩会館にお誘いしたところ快くいらしてくださり、仲良く交流を図りました。と、いった一日となりました。本当に、忙しい一日でした。

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No,038   #2010年01月09日(

由利本荘ベースボールクラブ応援旗由利本荘・にかほ地区はサッカーも盛んな地域ですが、それ以上に野球の熱心な地域だと思っています。TDKが都市対抗野球大会で優勝しましたし、本荘高校が甲子園出場の常連校になりつつあります。また、中学校や学童野球、500歳野球、壮年野球でも旧町単位で活躍しています。にもかかわらず、社会人の硬式野球チームがありませんでした。平成16〜17年の平成の大合併で、由利本荘市とにかほ市が誕生したのを節目に、社会人硬式野球チームの設立を呼びかけ、発起人の一人として奔走したことが昨日のように思い出されます。発起人会の開催、理事・チームスタッフの選出、スポンサーの獲得、ユニホーム・用具の発注、選手選考会の開催、設立総会・祝賀会の開催等々・・・。そして平成17年11月3日に、由利本荘ベースボールクラブが産声を上げました。写真は、同クラブの応援旗で「市民に愛され地域に貢献」のスローガンが記載されており、野球だけではなく地域のボランティア活動にも積極的に参加しています。野球でも全国大会に1度、東北大会に2度出場するなど、新チームとしては健闘しているのではないでしょうか?昨年は、少人数でしたが山鳩会館で合宿も実施しました。今年で5シーズン目に入る節目の年、同クラブの益々の活躍を期待していますし、地域の皆さんの応援をよろしくお願いいたします。

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No,037   #2010年01月08日(金)

由利原高原鉄道由利本荘市には、羽後本荘駅から羽後矢島駅23kmを結ぶローカル線「由利高原鉄道」があります。私が利用するときはあまりないのですが、本荘で飲み会があったときに年に2〜3回程度乗ることがあります。片手に缶ビールを持ちながら「おばこ号」に乗り込み、約40分の鉄道の旅も悪くないと思っています。特に好きなのが「ビール列車」です。夏場の暑いときに、列車1両を貸し切り仲間と飲むビールは格別で、また、眺める車窓も素晴らしく、鳥海山が見えたら100点満点ですね。確か3万円で貸し切ることができますので、10人だと3千円ずつ支払えばいいので安いのではないでしょうか?クラス会や同窓会、会社の飲み会にでも利用すれば、盛り上がることでしょう。私も3回ほど利用しましたが、皆さんにお勧めしたいぐらい楽しかったですし、また利用したいと考えています。皆さんも、一度ご利用ください!

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No,036   #2010年01月07日(木)

大館市にて記念撮影スポーツの大好きな私にとって、野球は、かけがえのない大切なものです。壮年軟式野球(40歳以上)県大会を目指し、鳥海クラブに所属しておりますが、鳥海地域の大会が春、夏、秋の3大会あり、選手が揃うときだけ出場しています。土日の大会なため、色んな行事と重なる場合があり、選手がなかなか集まらないのが現状です。鳥海地域の大会に出場すると、鳥海クラブ以外は若いチームがほとんどで、まともに戦ったら絶対勝てそうもない相手なのですが、時々番狂わせで勝ってしまうときがあります。よく周りからは、野球より口の攻撃(口撃)で勝っているといわれますが、そのとおりだと思っています。さて、写真は野球と関係ありそうもないのですが、平成17年の第52回全県OB軟式野球大会(当時の大会名)に出場して、1回戦で早々と負けてしまいました。せっかく大館まで来たのだからということで、大館樹海ドームを初めて見学してから、河川敷に大勢の人がいるのを見つけ行ったら、お祭りをやっていたのでちょっとお邪魔したときに、野口会長と一緒に記念撮影をしたものです。野球の楽しみは、野球そのものも十分楽しいのですが、全県を見て歩けることと、仲間との飲みニュケーションだと思っています。今年も、健康に注意し頑張ろう!

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No,035   #2010年01月06日(水)

ナースに変身!?私が住む伏見町内会には、若者会と羽黒講があります。若者会は50歳までの男性が加入する組織で、後継者が若者会に加入すると50歳前でも退会となります。私の場合も、48歳の時に長男が加入したので翌年から退会しました。そして羽黒講は、50歳までの女性(お母さん)が加入する組織です。羽黒講では、春には花見と称して小旅行を開催し、秋には9月の第2土曜日に宴会を開催します。どの行事にも3世帯の当番がおり、旦那さんがサポート役として一緒に準備や後片づけ、そして祝宴の盛り上げ役をこなします。写真は一昨年のもので、私の妻が当番になったので私も一緒に参加したときに、無理矢理かぶせられた時の写真で、変な趣味があるわけではありません。高校2年生の学校祭の時に、看護婦の姿をした時以来でした。最初は恥ずかしいですが、慣れてくるとまんざらでも無くなってきます。やっぱり、その気があるのでしょうか・・・?

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No,034   #2010年01月05日(火)

ワラ靴「省エネ」や「エコ」という言葉が、活字や画面で良く見かけるようになりました。いよいよ農業や田舎が見直される時期が来たような気がしてなりません。と、いうよりこれを利用しない手はないと考えます。機械化が進んでいない頃の水稲は、田植えも稲刈りも人の手をかけ、太陽の熱や風を利用した自然乾燥で、燃料を使用しない「エコ」な作業をしてきました。
そして、機械化した現在より、美味しいお米を作っていました。それが、高度経済成長期をきっかけに農業の機械化が進み、農家はその余った労働力を工場や土建業に向けて現金を稼ぐようになりました。当然、農業にかける時間は減り続け、化学肥料や除草剤、農薬などに頼るようになり、また、米価も下がり続けたため、消費者を意識した農業ができなくなりました。現在は、少し高くても安心で安全な農産物が求められています。そして、長引く不景気により失業者が増え続けています。
これを打開することができるのが農業であり、田舎なのではないでしょうか?そして、稲から出るワラは、写真のようなワラ靴や草鞋、畳の材料、縄となり、最後は肥やしとなって土に帰っていきました。このワラ細工をやれる方が少なくなり、やがて途絶える可能性があります。仕事が無いこの時期だからこそ、「エコ」なわら細工を復活させ地域興しができないのだろうか・・・。


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No,033   #2010年01月04日(月)

従兄弟(いとこ)会一昨日の1月2日は、従兄弟会(いとこかい)を開催しました。母方の兄弟は6人で、その子供が15人いますが、なかなか一緒になる機会はありません。
私の姉が5年ぶりに東京から帰ってきたこともあり、急遽連絡を取り合い開催したわけで、名古屋や関東方面にいる7人を除いた8人の夫婦(2人が欠席)14人が集合し、盛大に実施しました。
各世帯から料理を持ち寄り、アルコールだけを購入しての宴会なため、会費は一人1,000円です。最年長者が60歳で、最年少者が40歳と20歳の開きがあるものの、終始笑いが絶えない楽しいひとときでした。次回は6月20日(日)に、屋形船に乗って子吉川を下りながら一杯やることにしていますので、今から楽しみです。


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No,032   #2010年01月03日(

コーナー開始から1ヶ月…12月3日から始めたこのコーナーも、早いもので1カ月になりました。あまり無理をしないように、2〜3日に1回程度の更新をしようと管理者とは話していたのですが、書き始めてしまったらなんか止められないようになってしまい、今回で32回目となりました。内容については、お粗末なことばかりで申し訳ないのですが、あくまでも「独り言」なのでご勘弁願いたいと思います。さて、サークル「山鳩」のホームページについては、管理者のS君の絶大なる協力により運営されておりますが、このコーナーについては事務局担当の私が、朝の6時頃までにS君にメールすると、S君がホームページにアップすることになっています。10月18日のサークル「山鳩」設立30周年記念式典を開催したときに話が進み、約1週間後の10月26日にはホームページを開設する運びとなりました。整理されていない多くの資料の中から、写真や原稿をアップしてもらった作業には多大な時間を要したはずですが、全てをボランティアで実施いただいていることに対し、改めて感謝しているところです。今後とも、よろしくお願いいたします。

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No,031   #2010年01月02日(

福袋正月の楽しみ方は、各自によって色々あると思います。ゆっくりと寝正月をする方、新年の善し悪しを占うかのようにパチンコに興ずる方、箱根駅伝やラグビーなどのスポーツをテレビ観戦する方、新年会などに出席しアルコール漬けになる方・・・。私の場合、楽しみの一つに福袋があります。何が入っているかワクワクする部分と、値段的に得する気分になること、そして紳士服のLLを購入すると長男と次男に譲ることができることです。今年は、気に入った紳士服のLLがなかったので、1,000円の下着類と20,000円の福袋買いました。20,000円の福袋は、12月中旬に既に購入しており、元旦に引き替えに行くシステムになっており、初めの購入でした。20,000円の福袋をもらったほかに、20,000円分の商品券がついてきますので、かなり得だと思って購入したわけです。中身は毛布、衣類、洗剤、折り畳み傘、バスタオル、お茶のセット等々で、定価で20,000円相当はあるんでしょうね。いずれにしても、これ以外に20,000円の商品券があるのですから、福袋はおまけのようなもので得であることに間違いはないのです。ただ、必要としない物も入っていますから、どうなんでしょうね?結局は後悔しないことが、福袋の購入に当たっての心得でしょうかね・・・。

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No,030   #2010年01月01日(金)

かがみ餅2009年は、サークル「山鳩」にとっても私にとっても、忘れることのできない1年でありました。サークル設立30周年という節目の年を迎え、記念式典の開催と記念誌の発行、滝田洋二郎監督を囲む会の開催、念願だったホームページの開設を果たすことができました。また、NPOまつりへの初参加、知的障がい者との交流事業・高校進学受験対策事業の開催と、地域づくりに少しでも貢献することができた年でした。個人的には50歳を迎え、老眼鏡の購入、鳥海クラブが壮年軟式野球(選手が全員40歳以上)県大会に6年連続で出場し初のベスト4進出、透視で初めて再診となり胃カメラの検査をしたこと、職場が3年ぶりに地元になり地域活動がやりやすくなりました。そして、長男が結婚し、長女が大卒後の東京への就職を内定し、次男が自分で新古車を購入しました。どの事業においても、素晴らしい仲間と知人、そして温かい家族に恵まれ実現に漕ぎ着けたわけです。人間の幸せは、一生の間に巡り会える多くの人の中に、何人の大切な人と巡り会えるかだと思っています。そういう意味でも、2009年は忘れることができない年となりました。ホームページの開設に全面的に協力してくれているS君、高校進学受験対策事業に講師として協力いただいている草皆君と太田さん、そして知的障がい者との交流事業でお世話になっている沼倉ご夫妻と二十歳の会、講師としてボランティアで協力していただいている方々等、多くの方と巡り会いそれぞれの事業を実施できました。2010年も、もっともっと多くの方と巡り会い、実施している事業がバージョンアップできるようになれば、また、忘れることができない1年になることでしょう。そのためにも、仲間や家族を大切にし、そして地域のために頑張りたいと思います。遅くなりましたが、皆様には多大なご迷惑をおかけすることと思いますが、本年もよろしくお願い申し上げます。






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