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地域を学び、地域で遊ぶためのヒューマンネットワークマガジン
「かがりび」からの記事


 秋田県由利本荘市は平成17年3月に1市7町が合併して誕生しました。山形県との県境に位置する東北の霊峰「鳥海山」(2236m)のすそ野に広がり、日本海に沿いながら秋田市まで続く秋田県内一の面積を持つ、自然豊かで多くの伝統文化が息づく風光明美なまちです。その鳥海山のふもとに、合併前の旧鳥海町があります。旧鳥海町は、名瀑百選の「法体(ほったい)の滝、名木百選の「千本桂」、そして日本百名山の「鳥海山」を有する緑豊かな町で、地域には370年前に本海行人が伝えたとされる本海番楽(神楽の一種)が13団体、獅子舞が4講中によって受け継がれるなど、「獅子舞と神楽の里」として有名です。
 私たちのサークル「山鳩」は、昭和54年に成人を迎えた同年齢で結成。当時の鳥海村には5つの中学校があり、8月15日に開催する成人式の準備(対象者の住所調べや通知の発送、当日の役割分担等)のために集まったメンバー同士、お互いに知らない人も結構いました。「同じ村に住んでいるのだから、この機会にサークルをつくって友達になろう」ということで、サークル「山鳩」は28人の男女によって昭和54年5月に結成され、現在ではそのメンバーも50歳になってしまいました。名称の由来は、「山」が村のシンボルでもある鳥海山、「鳩」は平和をイメージし、末永く平和な村であることを望みながら、大空を飛び回って村を見守り続けたいという意味が込められています。結成当時は親睦が目的でしたのでバレーボールやボウリングなどでの交流、そして駅伝大会にも出場して上位入賞したこともありました。また、結成2年目からは独居老人宅の除雪奉仕作業、弁当配達サービス、道路のクリーンアップ、交通安全看板の作成、老人福祉施設の事業への協力などのボランティア活動にも取り組み、数々の表彰を受けています。大雪だった平成18年は10軒の独居老人宅の除雪を2回実施し、お年寄りから感謝されました。また、母子父子家庭の子どもたちへのクリスマスプレゼント配布も20年以上続いていますが、クリスマスの夜にジングルベルのミュージックを流しながらサンタクロースの衣装に身を包んだ会員が、「よい子にしていたかな、ご褒美にプレゼントをあげるよ」と1軒1軒を回ります。子どもたちの笑顔を見るたびに「来年もまた来よう」と思ってしまいます。
「米の秋田は酒の国」…集まれば当然のごとくアルコールがつきもので、反省会と称して宴会が始まるのですが、こちらでは“飲みニュケーション”といって事業の後には欠かせない大きな役割を担っており、この反省会があるから事業に参加する会員も少なくありません。
 三船家本家ところで、この鳥海の地には、あの「世界のミフネ」で知られる俳優、故・三船敏郎の父親の生家があります。三船敏郎は大正9年に中国の山東省青島で、写真館を営んでいた三船徳造のと長男として生まれ、敗戦後に日本に帰国するまで中国で育ち、入隊中に両親が亡くなったこともあり、戦後の何もない時に頼れるのは父徳造の生家である秋田県鳥海村の三船本家しかなかったのです。三船本家は村で古くから続く大地主で、多くの小作人を従える豪農でした。昭和21年の夏、帰国した三船敏郎は、その父親の生家でごちそうになり、米1俵と布団1組をもらって帰ったのです。その1カ月前には、カメラマンとして入社を希望していたものの空きがなかったため、そのうちにカメラマンになれるだろうと俳優の試験を受けていた三船敏郎。補欠合格ながら、東宝第1期ニューフェイスに選ばれ、翌年、『銀嶺の果て』で映画デビューし、黒澤明監督とコンビを組んだ『酔いどれ天使』、『羅生門』、『七人の侍』、『用心棒』、『赤ひげ』など、ヒット作を飛ばし、名俳優としてスターの座を歩むことになるわけです。また、昭和36年の『価値ある男』以来、『グランプリ』、『太平洋の地獄』、『レッド・サン』といった海外の大作にも出演し、”世界のミフネ”として君臨しました。
 昭和44年、三船プロダクションの第1作『風林火山』が世に出た年、秋田農業大博覧会に招かれた三船敏郎は、本家を再び訪れています。墓参りをして先祖に手を合わせた後、親類や近所の人たちに囲まれ大歓迎を受けた三船敏郎は、天然のアユや漬物をつまみに地酒を飲みながら交流を深めました。また、頼まれた色紙は断りもせず、大粒の汗をかきながら1枚1枚全部に書いています。三船プロのシンボルマークは「丸に木瓜」で、三船本家の家紋を使用していますし、運転手やお手伝いさんも鳥海出身の方を雇用しています。こんなところからも、三船本家の血脈へのこだわりと愛着を感じることができます。
 あの「太陽にほえろ」にも出演していた故・粟津號さん(秋田県男鹿市出身:俳優)は、父を秋田県人に持つ三船敏郎に興味を抱き、三船本家を何度か訪れて聞き取りした手記を一冊の本にしました。また「三船敏郎フォーラム」チラシ、「三船敏郎外伝」という一人芝居を演じ、秋田の三船敏郎にこだわった活動をしていましたが、平成12年3月に志半ばで他界してしまいました。以前から、鳥海にかかわりのある三船敏郎に興味のあった私は、そんな粟津さんに共感し、平成10年に三船プロダクションを一緒に訪問し、長男で俳優の三船史郎さんとあって私たちの思いを伝えてきました。その際、書斎にあった「鳥海町史」を見たところ、三船本家に関する記述には1つ1つ付箋が貼られたり傍線が引かれ、三船敏郎直筆のコメントが添えられていました。このルーツへのこだわりが、“秋田県鳥海は三船敏郎の郷”と断言できるゆえんであると私は考えています。私たちは、平成9年12月24日に亡くなった三船敏郎を追悼し、翌年夏に『風林火山』と『宮本武蔵』2本立てによる、三船敏郎追悼映写会を鳥海地域の紫水館(鳥海公民館)で開催しました。その後は、三船プロの許可を得て、Tシャツやテレホンカードを販売するなど地道な活動を続けています。そして平成18年、秋田県の市民活動支援助成金「パワーアップ(U型)事業」に申請し、公開プレゼンテーションを経て、8団体の中から4団体が採択を受けましたが、その1団体に、私たちサークル「山鳩」が申請した「三船敏郎の郷づくり」が入ったのでした。
 実はこの補助事業を知ったのが応募締め切りの2日前で、準備期間が全くなかった上に申請書類にボリュームがあったので、一晩で作るには無理がありましたが、何とか提出したいという思いで取り掛かりました。今回は来年度に向けての力試し程度に考えていたため、申請から1カ月後に行われたプレゼンテーションでは、これまで私の中に培われてきた三船敏郎への強い想い、これまでの活動内容などを、資料を交えながら熱く語るしかありませんでした。それが功を奏したのか、予想もしていなかった採択の通知が届き、うれしいというより驚いてしまいました。
 それにはもう一つの理由があるのです。実は、申請書に不備な点があるということで県の担当者から何回か電話があり、申請書類を差し替えたりしたのですが、さらに詳しい資料を求められたりするものですから、私も公務が非常に忙しかったので、「審査するのはあなた方ではなく一般の審査員がするのだから、公開プレゼンで私が直接説明します」と、事業担当者とやり合ったのです。そんなわけで、「この程度の資料では採択になる可能性はありません」と県職員から断言されてしまいましたので、一緒にプレゼンに参加した会員たちとも、最初から諦めての参加であり、驚きは2倍になったわけです。
 それでは、「三船敏郎の郷づくり」について説明します。平成18年12月2日に紫水館において、長年の夢であった「三船敏郎フォーラム」を開催します。ゲストに、かつて三船プロの美術担当で三船敏郎の右腕として活躍された佐藤袈裟孝さん(長野県)と、粟津號の夫人である船木倶子さん(秋田県男鹿市出身:詩人)を鳥海に招き、三船敏郎について語り合いたいと考えています。また、ちっぽけではありますが鳥海総合支所(旧役場)前に常設の三船敏郎資料館を設置し、パネルや写真、遺品等の展示、映画の上映を計画しています。2カ年継続の補助事業なので、19年度は「三船敏郎の郷」PR用大型看板の設置、映写用ビデオプロジェクターの購入、そして2回目となる「三船敏郎フォーラム」のゲストには、三船史郎さんをお招きして開催したいと考えています。
 将来的には、さらに大きな夢があります。三船本家は築100年以上にもなるかやぶき屋根の豪農宅で、使用されている木材等も立派な物です。三船敏郎の血縁の方が今でも住んでいますが、あまりにも大き過ぎる建物と敷地の維持管理に苦慮している現状にあるため、この建物を「三船敏郎記念館」として保存し、世界各国にいる三船敏郎ファンに公開したいと考えています。そのためには、父親を秋田県大仙市(旧中仙町)に持つ黒澤明監督の本家とも連携し、また、隣りの旧矢島町は喜劇監督の斉藤寅次郎の出身地でもあるので、秋田県全体の財産として事業を展開できないものか、「三船敏郎記念館建設基金」を創設し全国から寄付金を募れないものか、などと「山鳩」のメンバーと話し合っています。








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